ぱむすけライブラリー

どくしょにっき

中井久夫(2004)「踏み越えについて」(『兆候・記憶・外傷』所収)

 ファーストキスから戦争まで——。

 一見無関係な両者に「踏み越え」という共通項を中井はみてとる。「踏み越え」とは広く思考や情動を実行に移すことであり、言語よりもイメージよりももう少し以前の《もの》に触れることで引き起こされる。この《もの》は、同時通訳で言葉から言葉に着替えする間にかいまみられる何ものかとも、私たちの意識下の生理的水準にある「イデア」とも表現されている。

 「踏み越え」にあっては、言語やイメージによる意識的な判断を経ることなく、イデアがいきなり行動化コースに入る。こう聞くとたいそうなことに聞こえるが、ファーストキスなどのエロス的行動化はこの経路が普通であり、むしろ言語化・イメージ化を経た意識的行動化にはウソくささすらあるという。イデアからイメージ、言語化を経て行動というコースが普通だというのは思い込みにすぎず、行動化が先行して後に、イメージ、言語化コースに移ることは珍しくない。それどころか、多くの人生決定がこの形でなされ、理由づけ(合理化)・追想・後悔が後を追うとまで書かれている。

 「踏み越え」が起きる直前には「もういっそ始まって欲しい、今の状態には耐えられない、蛇の生殺しである」という感覚が生まれるというのはとてもよく分かる。愛するくらいなら壊してしまいたいという希いのことだろう。一度始めてしまえば、少なくともその最中は私の世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感が手に入り、矛盾や葛藤を棚上げすることができるのだから。問題解決の選択肢が少なくイメージ化がうまくできないことや「いい子」の抑圧しつづけてきた自己破壊衝動はこの「踏み越え」をやさしくする。

 私は常日頃「いっそ踏み越えてしまいたい」と希っているのだろう。しかし、「戦争、不幸、悪、病い、踏み越えは、強烈な輪郭とストーリーを持ち、印象を残し、個人史を変える行動化で、それ以前に戻ることは困難である。規範の侵犯でなくとも、性的体験、労働体験、結婚、育児、離婚などは、心理的にそれ以前に戻ることがほとんど不可能な重要な踏み越えである」(321)とあるように、取り返しがつかないという大きな恐れがあるから踏みとどまっている。いつからこんなに臆病になったのだろう。しかしせめて、日常生活にゆらぎを求めたい。だから人に会いに行くし、勉強をするのだろう。

 一方で中井は精神科医らしく、いかに踏みとどまることができるのかを考察する。それは第一に「自己コントロール」とそれによる自尊心の増進と情緒的な満足、好意的なまなざしの感受、社会評価の高まりであり、さらには、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、独りではないという感覚、信頼できる友情、個を超えたつながりの感覚およびこれらを可能にするものとしての文化の重要性を指摘する。そしておそらく、言語が文化を成り立たせている。行為はすべて因果的・整合的なナラティブで終わらなければならないという社会的合意によって文化は成り立っている。フロイトが言うように「文化とは欲動断念」なのだ。言語は一般にイメージを悪夢化から救い、貧困化し透明化する。その一方で、欲動を断念させ、私たちを現実原則に従わせることで「踏み越え」を思いとどまらせている。この文化の機能に対してフロイトは居心地の悪さないしは不満を表明している。精神の病には踏みとどまりのほうが近くにあるように思う。かといって、「踏み越え」によって精神の病が軽くなるのだろうか?たしかに、「踏み越え」によって得られる能動感や統一感はいっときの鎮静剤にはなりそうである。

 私の「踏み越え」を思い返してみると、最も強烈だったものは大学一年生の春に應援部へ入部したことだった。梶井基次郎の『檸檬』になぞらえて、應援部という檸檬爆弾によってそれまでの私を爆破したいとしきりに言っていたのを覚えている。では、應援部のなににそこまで心惹かれたのか。もともと應援部というものへの憧れは持っていた。欠落していた男性性への憧れだったのだろうか。舞台上のリーダーの力強さ、自分を無根拠に全力で肯定しているさまが心に触れたのを覚えている。まさに、イメージ化・言語化以前のものがそこにはあった。さらに、男性性と女性性を超えたリーダーとチアの渾然一体感に驚いた。それまでは知らなかった親密感というもの、フラジャイルな強さがそこにはあった。そういう仲間が欲しかったのだった。あの頃はいつも「イデア」に触れることができた。手押し車で登山をするような苛烈な練習のあとは深い充実感があった。毎日が祝祭だった。「私」は自然と手放され、境界があいまいになり、渾然一体となった強いエネルギーが爆発していた。あの頃から、「『踏み越え』の嗜癖化」とでもいうべきものが生じているのかもしれない。いつも、こちら側からあちら側に行きたがっている。境界があるならば、それを飛び越えてしまいたいと思いがちである。

 いま境界といったが、一体境界とはいつどのようにして引かれてしまうものなのだろう。家族の境界はどこにあるのかと問うたときに、答えるのは実は難しい。友達と友達でないひとの境界は、浮気と浮気でないの境界はどこだろう。それが恣意的なものであることは分かる。しかしどう恣意的なのか。ただの私たちの誤作動なのか。わざわざ「踏み越え」なくても境界を揺るがせるのならばそれに越したことはないだろう。