ぱむすけライブラリー

どくしょにっき

千葉雅也(2018)「意味がない無意味――あるいは自明性の過剰」(『意味がない無意味』所収)

考えすぎる人は何もできない。頭を空っぽにしなければ、行為できない。(35) 

 本論の中心的な命題だ。千葉は続ける。

 考えすぎるというのは、無限の多義性に溺れるということだ。ものごとを多面的に考えるほど、我々は行為に躊躇するだろう。多義性は、行為をストップさせる。反対に、行為は、身体によって実現される。無限に降り続く意味の雨を、身体が撥ね返すのである。(35,6)

 ここでいう身体とは《モノ》のことだ。思考に対立する。《モノ》――本論の例ではトマト――は潜在的には私達に無限の解釈を許すが、この降り注ぐ意味の雨を止ませなければ、私達はトマトを使ってなにかをしはじめることはできない。この意味の雨を撥ね返す石のようなものが《モノ》の持つ〈意味のない無意味〉という側面だ。〈意味のない無意味〉は石のようにじっと耐えている。

身体は私達の一番身近にある《モノ》である。それは時としてままならないものだ。病とは身体のままならなさに翻弄されることであると同時に、病んだ身体という〈意味のない無意味〉によって、あらゆる思考が切断されることだ。意外にも、病のときのほうが私達は行為をしやすい。無限に溢れ出す意味に溺れることがない。病院に行ってお粥を食べて眠るだけだ。

《モノ》は両義的だ。それは意味の雨を降らせる源泉であると同時に、その雨を撥ね返す石でもある。私の関心は後者にある。頭を空っぽにさせるような石とはなにか。

無限の解釈を許す《モノ》は同時に、その解釈を無化するブラックホールでもある。ブラックホールの過剰な引力が無限の解釈にストップをかける。私達は《モノ》に惹かれている。同じ《モノ》の周りをぐるぐると回っている。

共通理解はなぜ可能なのか。《モノ》が無限の解釈を許してしまうだけのものであったら、そこに共通理解は生まれない。私達がある《モノ》についての理解を共有しあえるのは、《モノ》がただそこにあるというあまりに自明なことの揺らぎなさによっている。〈意味のない無意味〉としての《モノ》は意味を切断する。無限の解釈が切断されて有限化されるから、私達は分かり合うことができる。

《モノ》の両義性については今後も考えていきたい。