ぱむすけライブラリー

どくしょにっき

山崎吾郎(2019)「技術と環境 人はどうやって世界をつくり、みずからをつくりだすのか」(『文化人類学的の思考法』所収)

私達の《あたりまえ》を揺るがすような印象的だった一節から書き始めたい。

自然と不自然、本物と偽物のあいだには、ちょうど、眼鏡とサイボーグのあいだにあるのと同じ差異が感じとられている(30) 

 技術は人間や自然の本性を変化させると考えられている。遺伝子組換え食品は《自然の》種ではないし、能力を高める薬を飲んで受けた試験の結果は《本当の》能力ではない、そう考える人は多いだろう。しかし、眼鏡をかけている人は依然《自然な》人であると思う。眼鏡という技術でエクステンドされた人は《不自然な》サイボーグとはみなされない。「技術の問題には、世界へのかかわり方にまつわるこうした緊張感(30)」があるのだ。

技術の特性についてマルセル・モースは《相互的因果》という概念を提起している。

人は、ある動作や技法の延長線上に技術を作るだけでなく、作り出された技術によってみずからが影響を被るという、反対方向の関係性に同時にまきこまれているということだ。(32,3)

たとえば、先の尖った石器(尖頭器)は、大型の動物を仕留めるために用いられた旧石器時代の代表的な道具であるが、同時にそれは、狩猟という社会的行為を可能にし、狩猟社会が成立するための物理的な条件ともなった。(33) 

 この概念は、人は「技術との関係にまきこまれた具体的な生のあり方(33)」をしているという理解を促す。「技術によって人の生活が成り立っており、同時に、人の生活のなかからその必要に応じて技術が作り出されている。この相互的因果を考えることは、人と世界のかかわりを考えることにほかならない(34)」のだ。

この概念を理解するにはユクスキュルの《環世界》――身体の延長上に、身体と互いにかかわりあって現れる世界――の考え方が示唆に富む。マダニは眼も耳も味覚もない生物で、光角を使って低木を登り、嗅覚を使って酪酸を発する温血動物に飛び乗る。人の環世界とマダニの環世界とでは酪酸の果たす役割は大きく異なる。私達は同じ自然の中を生きているようでいて、しかしながら、マダニの環世界を生きることはできない。誰も《自然そのもの》や《世界そのもの》を知覚できていないのだ。

人にとっての世界とは、人が知覚することができ、また人に作用することができる世界のことである。私たちは、みずからの身体と技術をとおしてなんらかの関係性をつくりだせる世界を生きることしかできない。(36) 

 ここで、ラディカルな視点の転換が行われる。私達は《自然な》環境を技術によって切り開いてきたのではない。環境そのものを技術によってつくりだし、《技術的環世界》を生きてきたのだ。《自然そのもの》は不可知で、私達が知れるのは技術を通して関わることのできる範囲、私達にとっての環境だけなのだ。この複雑な絡み合いを生きるということは、社会に独自の領域があるとかそういう議論を無効にする。科学技術社会論を研究するラトゥールは以下のような批判を掲げ、自然と社会は互いに独立した領域ではないと主張する。

近代社会を対象とした人類学が見いだしたのは、社会とは、じっさいには人間と非人間をさまざまに関係づける実践の連鎖の中でしかとらえられないネットワーク状の構成体だということだ。 (39)

 病院という特殊な環世界について考えてみよう。顕微鏡という技術を通して医者が見ている患部と、痛みを感じている患者とでは、知覚されている世界が異なる。ワクチン接種のリスクが数値で示されるとき、患者の《統計的に構成された身体》だけが問題となっている。技術と社会は複雑に絡み合い、私達の権利という領域にまでそれは及んでいる。ウクライナ原発事故では、「社会保障を受ける権利は、みずからの身体がどのような状態にあるかを科学的に説明できることで初めて正当化される(40)」のだ。

最後に、私達の身近な世界にあるこの問題について引用して締めくくりたい。

スマホを手放すことであなたが不安を感じるのだとしたら、それは、スマホがあなたの日常を構成する環世界の一部となり、あなた自身の生を規定しはじめているということだ。つまり、あなたの身体は、スマホをつうじて変容しはじめていることになる。(42)