ぱむすけライブラリー

どくしょにっき

千葉雅也・二村ヒトシ・柴田英里(2018)『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』

本書は哲学者の千葉雅也とAV監督の二村ヒトシ、現代彫刻家でフェミニストの柴田英里による性的欲望の問題を中心とした結構過激な鼎談だ。はやく読みたすぎて発売日の深夜にKindle版を購入して読んだ。なので、引用の括弧内はページではなくKindleの位置ナンバーだ。

性的欲望に何か特別なところがある(食欲などとは異なり、性について語ることには特別な恥ずかしさがあるでしょ(75)

性について語るときの特別な恥ずかしさはなにに由来しているのか?この性的欲望とは私達が生きるにあたってどう機能しているのか?

欲望とは、積極性です。積極性とは、言い換えれば「肯定」です。欲望とは、肯定することです。肯定的生、肯定的性。それはしかし、逆説的に思えるかもしれませんが、何らかの「否定性」としぶとく付き合い続けることを含意している(113)

 性について語ることになんらかの抑圧を感じるのはこの「否定性」故だろう。自分からは言い出せなくても、話を振られたらちょっと喜んでしまうという受動性がある。「〜してはいけない」という否定性、秘密の存在が心の中で蠢く積極性を支えている。性的な交わりには受動性というか、主体的な積極性が溶けていくモーメントがある。「セックスには中動態的なものがある。責任帰属が問えない状態のまま、あるエロティックな状況が起動して、その中で主客がよくわからなくなっていく(1019)」とあるように、主体の否定というネガティブな側面が性の本質なのだ。

この主客の溶け合いは性だけでなく、日常のコミュニケーションのいたるところに現れれている。しかしながら近年は主客を明確に分離しようという圧が社会で高まっていると述べられている。この帰結のひとつがTwitterでよくみられるような「正義の怒り」だ。

被害者感情による攻撃性を社会正義として肯定する女性には、その被害者として傷ついている自分に気持ち良くなっている部分もあります。[...] 敵を発見してキーッてなる、怒りにとらわれることはオーガズムです。(795)

 否定性や受動性というとネガティブなイメージがあるかもしれないが、人は主体であるよりは客体でありたいと願っている面があって「気持ちよくさせてもらいたい」と思っている。怒りをぶちまけるとすっきりするのは積極性ではなくて受動性なのだ。Twitterを探索して怒りのネタを探すのことには気持ちよくさせてもらいたいという欲望がきっとある。「自分たちがどれだけ攻撃的に出ても、それを乗り越えて受容されること、圧倒的に満たされることが、ネットで怒っているような人たちの欲望(1719)」と分析されている。

ところで、被害者意識には偶然性の問題が絡んでいる。

自分の傷には誰か原因となる加害者がいた、この件にも悪者がいるはずだ、この件もあの件も人災だって認知すると、自分への加害者の存在を思い出せて、また怒ることができる。(1032)

できれば、ほとんど人災だったことにしたい。偶然性の否認だよね。偶然性というのは、合理性のまったき否定ですから、理性的動物としての人間には耐えられないわけです。だから必死になって、どんな災難にもそれなりの理由があったと思いたい(1036)

これは鬱病にも言える。鬱状態において、なぜ自分はこんなに苦しんでいるのかということには根源的な理由はない。だから理由を探す。しかし、そこに理由はないのだと偶然性を受け入れることでしか鬱を乗り越えることはできない。「あまりに単純すぎるがゆえに、なにか物語がないと耐えられない(1744)」のだ。

精神病といえば、「なぜそれが病気なのか」ということは社会の趨勢によって決まるところがある。たとえば、「コミュ力の価値が上がることで、そこからこぼれるあり方、発達障害というカテゴリーが注目されるようになった。昔だったら、「ちょっと変わった人」ぐらいで済まされていた人を、病理化してカテゴリーを作って、どんどん取り込んでいっている(1915)」といった具合だ。

病だけでなく、なにかの被害を受けたときに生まれる傷はその人に固有のものだ。しかし、#MeTooなどの運動は「あなたの傷は私の傷でもある」と言って、その固有性を否定する。これを共感と言えば聞こえがいいかもしれない。しかし私達はあまりに共感を理想化しすぎている。共感とは固有の感情を交換可能なものに貶めてしまうという側面がある。

傷の価値、値段が下落したからこそ、傷を交換することがポピュラーになり、そのポピュラーな行為が、コミュニケーションとして優位なものになっていると考えています。(3004)

私がたとえ傷ついたとしても、それは私固有のもののはずなのに、それをSNS上で交換することで、特定の表象を、何か普遍的な女性という概念に対する犯罪にしたいんじゃないか。私は、それは女性性の一元化・本質主義化にすごく近い(3007)

 共感は多様な固有性を喪失させる。それは人間の固有性の毀損だ。違和感のある意見にも聞こえるが、共感による結びつきのポジティブな面だけを見ていると、道を誤りかねない。

私が他ならぬ私であるためには、性と生の積極性を支える否定性・偶然性を受け入れることが必要だ。交換不可能な私、私だけの傷。ネガティブなものが私が私である積極性を作り上げているのだ。この逆説を生きることをこの本は勧めているのだと私は受け取った。