ぱむすけライブラリー

どくしょにっき

松岡, 正剛. (2005). 「2 フラジリティの記憶」.(『フラジャイル』所収)

「弱さ」とはなにかという問題をフラジャイルという言葉の消息を求めることで見つけていこうというのがこの本の目的だ。多様な文学作品への言及、多様な言い換えの中をさまよい続けさせられて「結局フラジャイルとはなんなのだ?」という思いに駆られるが、その捉えきれない断片性こそがフラジャイルなのだろう。

今回取り上げる「2 フラジリティの記憶」という節には印象的な詩の引用があった(76,7頁)。北原白秋による『青いとんぼ』である。

青いとんぼの眼をみれば

緑の、銀の、エメロウド

青いとんぼの薄き翅、

燈心草の穂に光る。

 

青いとんぼの飛びゆくは

魔法使ひの手練かな。

青いとんぼを捕ふれば

女役者の肌ざはり。

 

青いとんぼの綺麗さは

手に触るすら恐ろしく、

青いとんぼの落ち着きは

眼にねたきまで憎々し。

 

青いとんぼをきりきりと

夏の雪駄で踏みつぶす。

 最終行に注目してほしい。この心の動きを松岡は「このたいせつにしたいのに雪駄で踏みつぶしたくなるような二律背反の感覚が『邪険な哀切』なのである」(77頁)と書いている。「邪険な哀切」とはなにか。それはフラジリティに関わるものである。松岡は「この蝶と手のあいだにわずかにあるもの、その覚束ない感覚がフラジリティなのである」(75頁)と書いていた。

しかし、蝶や小鳥がフラジャイルなのは、それが稚くいとけないものであるからで、それはこわれやすくおぼつかなくて、それゆえにたいせつにされるのではない。蝶や小鳥が手にくるみたくなるほど愛らしいからフラジャイルだというわけではない。(75,6頁)

 では、なんだというのか。なにが蝶や小鳥をフラジャイルにしているのか。

そこには「うすばかげらふのやうな危機感」がなくてはならない。 

しかも、ここが大事なところになるが、そこには愛着と半ばする「邪険な哀切」といったものが関与する。愛着と裏切は紙一重、慕情と邪険も紙一重である。(76頁) 

 蝶や小鳥がフラジャイルなのはきりきりと夏の雪駄で踏みつぶしたくなるような「邪険な哀切」を抱かせるからだというのが松岡の主張なのだ。これを初読した当時の私(2018年2月)は頁の隅に「よくわかる・・・」とメモを遺している。しかし、今の私にはいまひとつピンとこない。この感覚の移ろいやすさもフラジャイルなものなのだろう。

「邪険な哀切」を孕んだ「覚束ない感覚」がフラジリティである、らしい。ひとつ思い出したことがある。ロヒプノールという睡眠薬がある。あれを舌下に入れて溶けるのを待つとなんとも淡い味が溶けていくのだ。あれはまさに「覚束ない感覚」であった。このロヒプノールはなかなか強い睡眠薬なので、眠気を誘ってくれるのだが、そのまま眠れるときと眠れないイライラに苛まれるときとがあった。睡眠薬に頼らなければならない苦々しい思いもあった。ロヒプノールに抱く二律背反の思いとあの舌下の淡い味が合わさって、社会に適合できない自分を慰めることができていた。今でも懐かしい味として思い出す。あれがフラジリティだったのか。

繊細なガラス細工に見惚れていると、ふとすべて投げ壊したらどうなるのだろうかと妄想するときがある。きりきりと青いとんぼを踏みつぶしたくなるような気分である。優しくしてくれる友人に酷い言葉を投げつけたらどうなるだろうと妄想する。「愛着と裏切は紙一重、慕情と邪険も紙一重である」のだ。これらの思いを抱かせる細工や友人はあの舌下のロヒプノールと同じ味がするのだろう。感覚を振動させる。固定されていないがゆえにどこか覚束ない感覚を思わせる関係。

このフラジリティはそのまま美しさであると思う。関係が固定された瞬間、心の振動を止めた瞬間、これらの感覚は消え失せてしまうだろう。覚束ない感覚と邪険な哀切とが私に美しさを見せてくれる。それが多少居心地悪かろうとも、美しさのためには愉しんでいきたいな、とぼんやり思う。