エーリッヒ・フロム「第4章 愛の修練」(『愛するということ』所収)
本章では、愛する能力はどのようにしたら育めるのかが述べられている。最初に、この修練には規律・忍耐・集中が必要であると述べられ、面食らってしまった。しかしながら、集中できるということについての次の記述にはぐっとくるものがあった。
実際、集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。もし、自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。(167)
私は一人でいることが得意ではない。その割に、平日の多くの時間を一人で過ごしている。寂しいと頻繁に思う。その度に友達に連絡をとったりするが、それはしがみついているだけかもしれないと思った。どうしたらそこから抜け出せるのか。この続きを読むのに期待を持った。
相手のイメージは多かれ少なかれナルシシズムによって歪められている…中略…人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性を理性を育てなければいけない。(178,9)
相手そのものを見れていないように感じた。不安感が強いために、悪い可能性を過大評価してしまう。それは相手のイメージを歪めているのに過ぎなくて、実際はそんなことはないのは分かってはいる。どうしたらナルシシズムから抜け出せるのか。
愛の技術の修練には、「信じる」ことの修練が必要である。(180)
他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。(182,3)
自分自身を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。(183)
「信じる」ということ。愛の問題はここに帰着すると私は思う。他人を信じるためには私自身を信じられなくてはならない。「自分の中に、一つの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する」(183)にはどうしたらよいのか。ここで、約束するということへの言及があった。
約束できるということが人間の最大の特徴であるから、信念は人間が生きてゆくための前提条件の一つである。(184)
体調がものすごく悪かったころ、友人と約束をすることができなかったのを思い出した。約束をして、その日時場所にちゃんと行けるということ、それだけでとても嬉しかったのを覚えている。これが可能になるためには、自分自身が数日後も自分自身であって、約束を果たすだけの体調が整っていると信じられること、すなわち、未来を信じられることが必要だからだ。ここから話は勇気という主題に移る。
信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。(187)
安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもつことができない。(187)
苦痛や失望をも受け入れる覚悟が自分には足りないとはっきり思う。安全と安定がほしいあまりに、自分への否定的な評価に心が乱されることから逃げ続けていた。でも、勇気がなければ変化は生まれないのであって、変化し続けなければ愛は長続きしないだろう。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。 (190)
この勇気が自分には足りない。この勇気の書くときには、日常生活の些細な場面に目を向けろと書いてある。「自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかを詳しく調べること」(189)が修練の第一歩だという。自分はどんなときにそうしているだろうか。どんなときに愛されることではなく、「愛することを恐れている」(189,90)だろうか。
愛の修練の方法として、もうひとつ、「退屈したり退屈させたりしないこと…中略…たんに時間を浪費するといった内的な怠慢を避けること」(191)が挙げられている。退屈は長続きするつながりの敵である。長続きするつながりにはノイズを呼び込む余地が必要だ。ノイズに身を晒す勇気、安定と安全がゆらぐところで、新たな関係を取り結ぶこと。そうした不確実な状況においても相手と自分を「信じる」ということを修練していきたい。
ベイトソン著/佐藤良明訳(2000)「サイバネティクスの説明法」(『精神の生態学』所収)
ベイトソンの『精神の生態学』は当時の私には安くない本で、「大学の卒業記念に」と大型書店で購入したのを覚えている。もう10年以上昔のことになってしまった。
「イルカはどのようにして新しい芸を学ぶのか?」という話(「ダブルバインド1969」)を囚われるように学部の後半に読んでいた。20代初頭の私の頭にベイトソンの話は刷り込まれていて、私の知の地層を一番下で支えている。
この度、そのベイトソンを研究で使おうと目論んでいる。長続きするつながりとはなにか?を明らかにしたい私の研究で、彼の議論は大きなヒントをたくさんくれるのだ。
この論文ではサイバネティクスによって現実の現象を説明するための道具を用意してくれている。
まずは「コンテクスト」だ。「地域のコンテクスト」などと言われて「?」となった記憶がたくさんある。
ひとつの音素は、単語を構成する他の音素との組み合わせにおいてのみ、音素として機能する。このとき、単語が音素の「コンテクスト」になっている。しかし単語は「発話」という、より大きなコンテクストの中でしか単語としての「意味」を持たない。そして発話もまた、当事者間の関係性の中でしか意味を持たない。(536)
コンテクストとは、包含する事物や出来事に意味を与えるものなのだ。だから、
コンテクストがコミュニケーションを支える。コンテクストがなければ、コミュニケーションが成り立たないのである。(536,7)
ということが言える。
サイバネティクスの視点はマクロだ。だから、「現象界の全体を、因果関係とエネルギー授受関係のネットワークとして想起する(538)」。
このとき、個々の事物がどのように動きうるかという選択肢を考える。そのときに、「どのようにその選択肢は狭められているのか」という拘束という視点から考えると、
- 確率の経済からくる拘束
- フィードバックに関連する拘束
- 冗長性に関連する拘束
という3つの拘束がある。
第一の確率の経済からくる拘束はこう説明されている。
ふつうは“エネルギー切れ”になるだいぶ以前の段階で、“経済的”な限界というべきものが訪れる。すなわち、反応者が物理的に動けなくなるのではなく、対処すべき行動の選択肢が使い果たされて反応がストップするのだ。(538)
第二のフィードバックによる拘束については、こんな例が示されている。
回路の任意の地点にある変数を考え、この変数の値が(回路外の出来事の衝撃などによる)ランダムな変化によって上下すると仮定する。そして、このランダムな変化が一定時間後、因果の連鎖を一周して元の地点に戻ってきたときに、当の変数値にどう作用するかを考える。その作用は明らかに系の特性にしたがったものになるはずだ。すなわち、ランダムなものにはなりえない。
因果の循環系にランダムな出来事が生じた場合、その出来事が起こったその地点でランダムでない反応が生み出されるのである。
たとえば、私とあなたの関係という因果循環において、第三者からよく分からないことを言われたとして、私とあなたの間で話し合ううちに、よく分からないことが分かることに変換されていっているということだろうか。
私とあなたの安定した関係という確率的にきわめて稀な事態が観察された場合、どんな拘束のはたらきでその稀な状態がつくりだされているのかを示すのが、サイバネティクスの説明法なのだそうだ。
第三に、冗長性による拘束だ。
まずは、冗長性の定義が確認される。たとえば「ありが うございます」という文章をみたときに「と」が抜けていることをランダム以上の確率で推論できるのは、そこにくる文字の可能性を絞り込むパターン化の作用があるからだ。文章は冗長性を生むのだ。
ベイトソンは、パターンと冗長性をこう定義する。
パターンとは、全体が観察できないときに、遮蔽された向こう側に何があるか推測することを許すものごとの集合である。(542,3)
こうした「パターンの卓越の程度」、言いかえれば「出来事の集団の中である特定の出来事が起こる予測の容易さの度」が、「冗長性」の名で呼ばれるものである。(541)
以上が3種類の拘束の内容である。なにか稀なこと(仲の良い二人が仲良くいつづけるとか)が起きているときには、この3つの拘束が働いているはずなのだ。これから考えてみたい。
ここでベイトソンは突然、コミュニケーションの本質について語りだす。
パターン化を強め、予測可能性を増すことこそがコミュニケーションの本質であり、その存在理由であって、何の手かがりにも付き添われない文字が、最大の情報量を持って、一個ポツンとそこにあるというのは、珍妙で特殊なケースだとも考えられるのである。 (541,2)
さらに、
実際、コミュニケートするとは、冗長性とパターンを産み出すことと同義ではないだろうか。(542)
これが本当だとしたら、私たちが日々仲良くなろうと続けるコミュニケーションの果てには新奇な風の吹かない冗長性とパターンに満ちた退屈しかなくなってしまう。そんなのは嫌だ。
ベイトソンの胸中にもそんな思いがあったのかもしれない。この論文は最後にとても意味深なセンテンスで閉じられている。
情報でなく、冗長性でなく、かたちでもなく、拘束でもないものは、すべてノイズである。 ノイズこそが新しいパターンの唯一の発生源である。(546)
「新しい」という言葉が出現している。冗長性に満ちた世界が理想なのであれば、新しさなどは敵でしかない。コミュニケーションは冗長性を産み出すものだとしたら、私たちには、コミュニケーション以外のつながり方が必要なのだ。そのヒントを与えてくれるのが、新しいパターンの発生源であるノイズだ。
私は、あなたとのつながりはノイズと冗長性との間で揺れているからこそ楽しいのだと思う。
佐藤俊樹(2010)「第1章「情報化社会」とは何か」(『社会は情報化の夢を見る〔新世紀版〕』)
第1章で扱われている問題は「『情報化社会』とは何か」である。この問題に対して本書は、「情報化社会」は空虚な記号であり、技術予測の名を借りた未来社会への願望にほかならないと断じる。
まずこれを示すために、「情報化社会」は実体が存在しない空虚な記号であるということの証拠として、(a)繰り返し何度も「情報化社会がやってくる」という言説が流行しては消えていくこと、及び、(b)主張に隔たりのある2つの「情報化社会」論が共存できていることという2点を挙げている。
次に、「情報化社会」は実体がないのになぜ私たちにリアリティを感じさせてしまうのか、という問題を取り上げ、情報化社会論が技術予測に基づいて社会予測を行うという点に注目する。一般に、技術予測はニーズとその背後にある社会の仕組みという要因を無視することはできない。しかしながら情報化社会論は、「社会はこうなるはずだ」という未来社会のイメージを密輸入してきて、そのイメージにあわせて技術予測をやっていると指摘されている。
そして、この未来社会のイメージを作り出すものとして「AI的アナロジー」を取り上げている。これは例えば、インターネットの「自立・分散・協調」という技術特性に未来社会のイメージを重ね合わせてしまうといったことを指している。このアナロジーは社会の仕組みも情報技術の仕組みも共に人間の神経系をモデルとしているという同形性から生じる。この同形性によって、あたかもテクノロジーが高度化すれば社会の仕組みも進化するように見えてしまうのである。また、システム社会論やメディア社会論もこのAI的アナロジーは罠に陥ってる議論であると指摘している。
以上から本書は「情報化社会」について、こう結論付ける。
技術が社会の中でどう使われるかという視点もなければ未来社会イメージがどれだけ妥当なのかという視点もない。技術の使われ方の自由度という問題は未来社会イメージの心理的説得力によって隠蔽され、未来社会イメージの妥当性という問題は技術発展の必然性という装いによって隠蔽されている。社会の夢と夢の技術がお互いに支え合うことによって、お互いを何か確固としたものであるかのように錯覚させているのである(p.74)
この錯覚メカニズムから得られる教訓として、具体的な技術のみを扱い、社会的な文脈に注目し、理解可能な事柄に限定した議論をすべきであることを示している。
中井久夫(2004)「踏み越えについて」(『兆候・記憶・外傷』所収)
ファーストキスから戦争まで——。
一見無関係な両者に「踏み越え」という共通項を中井はみてとる。「踏み越え」とは広く思考や情動を実行に移すことであり、言語よりもイメージよりももう少し以前の《もの》に触れることで引き起こされる。この《もの》は、同時通訳で言葉から言葉に着替えする間にかいまみられる何ものかとも、私たちの意識下の生理的水準にある「イデア」とも表現されている。
「踏み越え」にあっては、言語やイメージによる意識的な判断を経ることなく、イデアがいきなり行動化コースに入る。こう聞くとたいそうなことに聞こえるが、ファーストキスなどのエロス的行動化はこの経路が普通であり、むしろ言語化・イメージ化を経た意識的行動化にはウソくささすらあるという。イデアからイメージ、言語化を経て行動というコースが普通だというのは思い込みにすぎず、行動化が先行して後に、イメージ、言語化コースに移ることは珍しくない。それどころか、多くの人生決定がこの形でなされ、理由づけ(合理化)・追想・後悔が後を追うとまで書かれている。
「踏み越え」が起きる直前には「もういっそ始まって欲しい、今の状態には耐えられない、蛇の生殺しである」という感覚が生まれるというのはとてもよく分かる。愛するくらいなら壊してしまいたいという希いのことだろう。一度始めてしまえば、少なくともその最中は私の世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感が手に入り、矛盾や葛藤を棚上げすることができるのだから。問題解決の選択肢が少なくイメージ化がうまくできないことや「いい子」の抑圧しつづけてきた自己破壊衝動はこの「踏み越え」をやさしくする。
私は常日頃「いっそ踏み越えてしまいたい」と希っているのだろう。しかし、「戦争、不幸、悪、病い、踏み越えは、強烈な輪郭とストーリーを持ち、印象を残し、個人史を変える行動化で、それ以前に戻ることは困難である。規範の侵犯でなくとも、性的体験、労働体験、結婚、育児、離婚などは、心理的にそれ以前に戻ることがほとんど不可能な重要な踏み越えである」(321)とあるように、取り返しがつかないという大きな恐れがあるから踏みとどまっている。いつからこんなに臆病になったのだろう。しかしせめて、日常生活にゆらぎを求めたい。だから人に会いに行くし、勉強をするのだろう。
一方で中井は精神科医らしく、いかに踏みとどまることができるのかを考察する。それは第一に「自己コントロール」とそれによる自尊心の増進と情緒的な満足、好意的なまなざしの感受、社会評価の高まりであり、さらには、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、独りではないという感覚、信頼できる友情、個を超えたつながりの感覚およびこれらを可能にするものとしての文化の重要性を指摘する。そしておそらく、言語が文化を成り立たせている。行為はすべて因果的・整合的なナラティブで終わらなければならないという社会的合意によって文化は成り立っている。フロイトが言うように「文化とは欲動断念」なのだ。言語は一般にイメージを悪夢化から救い、貧困化し透明化する。その一方で、欲動を断念させ、私たちを現実原則に従わせることで「踏み越え」を思いとどまらせている。この文化の機能に対してフロイトは居心地の悪さないしは不満を表明している。精神の病には踏みとどまりのほうが近くにあるように思う。かといって、「踏み越え」によって精神の病が軽くなるのだろうか?たしかに、「踏み越え」によって得られる能動感や統一感はいっときの鎮静剤にはなりそうである。
私の「踏み越え」を思い返してみると、最も強烈だったものは大学一年生の春に應援部へ入部したことだった。梶井基次郎の『檸檬』になぞらえて、應援部という檸檬爆弾によってそれまでの私を爆破したいとしきりに言っていたのを覚えている。では、應援部のなににそこまで心惹かれたのか。もともと應援部というものへの憧れは持っていた。欠落していた男性性への憧れだったのだろうか。舞台上のリーダーの力強さ、自分を無根拠に全力で肯定しているさまが心に触れたのを覚えている。まさに、イメージ化・言語化以前のものがそこにはあった。さらに、男性性と女性性を超えたリーダーとチアの渾然一体感に驚いた。それまでは知らなかった親密感というもの、フラジャイルな強さがそこにはあった。そういう仲間が欲しかったのだった。あの頃はいつも「イデア」に触れることができた。手押し車で登山をするような苛烈な練習のあとは深い充実感があった。毎日が祝祭だった。「私」は自然と手放され、境界があいまいになり、渾然一体となった強いエネルギーが爆発していた。あの頃から、「『踏み越え』の嗜癖化」とでもいうべきものが生じているのかもしれない。いつも、こちら側からあちら側に行きたがっている。境界があるならば、それを飛び越えてしまいたいと思いがちである。
いま境界といったが、一体境界とはいつどのようにして引かれてしまうものなのだろう。家族の境界はどこにあるのかと問うたときに、答えるのは実は難しい。友達と友達でないひとの境界は、浮気と浮気でないの境界はどこだろう。それが恣意的なものであることは分かる。しかしどう恣意的なのか。ただの私たちの誤作動なのか。わざわざ「踏み越え」なくても境界を揺るがせるのならばそれに越したことはないだろう。
アリソン・ゴプニック(2010)「第一章 可能世界」(『哲学する赤ちゃん』所収)
母が学芸大の修士課程で発達臨床心理学を学んでいた頃に薦めてもらった本だ。
ある詩からの印象深い引用がある。
人が口にしたり書いたりするなかで、いちばん悲しい言葉、それは《かもれなかったのに》(35,6)
私は何度もこの言葉を吐いてきた。辞めざるをえなかった部活のステージを見に行ったとき。体調が整わず、大学に居残ることを決め、社会へと羽ばたく同級生を見送ったとき。「あそこに自分がいたかもしれなかったのに」と悔やまずにはいられなかった。
後悔の原因には色々あるだろう。私の場合は病気というのっぴきならない事情だったが、努力不足、衝動的に投げつけた言葉、すれ違い・・・。いずれにせよ、実現しなかった過去の可能性にこれほどまでに私たちが拘るのには理由がある。
理由は進化の観点から説明できます。反実仮想が重要なのは、それが世界に働きかける手がかりになるからです。「かもしれなかったのに」と悔やむから、わたしたちは新たな可能性を求め世界に介入することができるのです。(36)
新たな可能性を求めるということは、過去の後悔を未来に生かすということで、過去の反実仮想と後悔は、未来に向けた反実仮想の代価なのかもしれない。
わたしたちは未来に責任をもつからこそ過去のことに罪悪感をもち、希望を抱くからこそ過去を悔やみ、計画を立てるからこそ失望を味わうというわけです。実現しなかった過去を悔やむことは、豊かな未来を思い描けることとセットになっているのです。(36,7)
知ることとは基本的に「時既に遅し」であることが多い。「愛している」ことを知れなかったひとが破局の後に「愛していた」ことを知るということはよくありそうなことだ。では、もう失ってしまったひとのことを愛していたと知るとき、その知は私たちになにを可能にしてくれるのだろうか。失恋の先に、豊かな未来を思い描けるようになるとでもいうのだろうか。後悔と未来の間にはやはり大きな断絶がある。
「あのときああしていなかったら、こうはならなかった」と悔やむこと。それはひとつの因果関係の発見であって、次に似た状況に遭遇したとき、違う結果をもたらすことができる。その時に、あのとき後悔していたからこそ、今回はよい結果を得ることができた、と考えろということか。
失恋から豊かな未来を思い描くことまでの間には長い距離はあれ、道は繋がっているように思える。ひとつひとつの後悔から、そこにあった因果関係を導いて、別の選択肢を見つけて実行する。その繰り返しの果てに、今とは違う未来が開けているかも知れない。
東浩紀(2019)「東浩紀がいま考えていることーー『テーマパーク化する地球』刊行記念」
東浩紀の発言のうち、気になったものを私の主観でまとめた形を載せる。
「哲学は概念の発明だ」 by ドゥルーズ・ガタリ
引用と参考文献の世界ではなにも言えない。発明なんてできない。
デモに行くときは発明なんていらない。発明の場所はなくなってしまった。
文章には飛躍が必要。その飛躍を人々に受け入れさせるにはどうしたらいいか。
「実際にそこに行ってみた」に人々は弱い。
いまみると、周辺(ゲンロンβ)に押しやったもののほうが魅力的
観客的公共性/観光客的公共性
能動的な観客をどうしたら作れるか、そこから立ち上がる二次創作的公共性
固有名は定義に分解できないから謎めいている
人文科学は固有名詞でできているが、自然科学は普通名詞でできている
多くの言葉(「正義」や「法」も)は定義できていない。また、定義が変わっていく
遡行的に定義が変わることがあるのが固有名の謎
「ジェンダー」や「ハラスメント」の定義が遡行的に変わり、これまでハラスメントではなかったものがハラスメントになっていく
集団も同様に、フットサルサークルがアニメサークルになっていくこともありうる
メンバーシップが遡行的にゆるゆる変わっていくという特徴がないと集団は続かない
アレクサンダー大王の定義をいくら積み重ねてもアレクサンダー大王にはたどり着けない
固有名には定義に回収できない謎のXがあるという否定神学的固有名の議論がある
一方で東は郵便的固有名として「訂正可能性」だけがあると主張する
我々は常に間違うから、それを訂正するプロセスで遡行的に定義を変え続ける
これが人間の言語に対する根本的な態度
これを集団の話に応用すると、「集団としての根拠のない集団が一番力がある」(《反安倍》で連帯する野党)という否定神学的集団がまずある
これに対して、固有名論は集団論に応用可能なので、「訂正可能性に基づいて固有名をつくるように広がる集団」が考えられないか
このメンバーシップを修正しながら広がっていくような集団を家族の拡張性と類比させて「家族的」と呼びたい
郵便的集団は家族的類似性によって拡張する
共通の祖先をオリジナルと考えると、私達(親のコピー)は二次創作軍団のようなもの
しかし東は、全員オリジナルだと言いたい
二次創作的な議論を入れるとオリジナルとコピーの関係を変えられる
コピーであることをもっとポジティブに作り変える思想を作りたい
経験的超越論的二重制(オブジェクトレベルとメタレベルの二重性を持つのが人間)
「お前の意見には反対だが(オブジェクレベル)、お前がそうに言う自由は認めよう(メタレベル)」
この「人間」はメディア環境と結びついていて、インターネットの出現によって人間はオブジェクトレベルだけの存在(経験的存在)になった
統計の予測(統計的に見てこの地域には2000人反政府活動家がいる)に実際の人を合わせるためにスターリニズムでは虐殺が起きた
数字でしかないので、この加害には意味がない
意味のない加害は記憶されないが、被害者は意味を探したがる
しかし、意味を見つけると、本当の残酷さ(無意味)は消えてしまう
感想はいずれ追記したい。
千葉雅也(2018)「意味がない無意味――あるいは自明性の過剰」(『意味がない無意味』所収)
考えすぎる人は何もできない。頭を空っぽにしなければ、行為できない。(35)
本論の中心的な命題だ。千葉は続ける。
考えすぎるというのは、無限の多義性に溺れるということだ。ものごとを多面的に考えるほど、我々は行為に躊躇するだろう。多義性は、行為をストップさせる。反対に、行為は、身体によって実現される。無限に降り続く意味の雨を、身体が撥ね返すのである。(35,6)
ここでいう身体とは《モノ》のことだ。思考に対立する。《モノ》――本論の例ではトマト――は潜在的には私達に無限の解釈を許すが、この降り注ぐ意味の雨を止ませなければ、私達はトマトを使ってなにかをしはじめることはできない。この意味の雨を撥ね返す石のようなものが《モノ》の持つ〈意味のない無意味〉という側面だ。〈意味のない無意味〉は石のようにじっと耐えている。
身体は私達の一番身近にある《モノ》である。それは時としてままならないものだ。病とは身体のままならなさに翻弄されることであると同時に、病んだ身体という〈意味のない無意味〉によって、あらゆる思考が切断されることだ。意外にも、病のときのほうが私達は行為をしやすい。無限に溢れ出す意味に溺れることがない。病院に行ってお粥を食べて眠るだけだ。
《モノ》は両義的だ。それは意味の雨を降らせる源泉であると同時に、その雨を撥ね返す石でもある。私の関心は後者にある。頭を空っぽにさせるような石とはなにか。
無限の解釈を許す《モノ》は同時に、その解釈を無化するブラックホールでもある。ブラックホールの過剰な引力が無限の解釈にストップをかける。私達は《モノ》に惹かれている。同じ《モノ》の周りをぐるぐると回っている。
共通理解はなぜ可能なのか。《モノ》が無限の解釈を許してしまうだけのものであったら、そこに共通理解は生まれない。私達がある《モノ》についての理解を共有しあえるのは、《モノ》がただそこにあるというあまりに自明なことの揺らぎなさによっている。〈意味のない無意味〉としての《モノ》は意味を切断する。無限の解釈が切断されて有限化されるから、私達は分かり合うことができる。
《モノ》の両義性については今後も考えていきたい。