ぱむすけライブラリー

どくしょにっき

アリソン・ゴプニック(2010)「第一章 可能世界」(『哲学する赤ちゃん』所収)

母が学芸大修士課程で発達臨床心理学を学んでいた頃に薦めてもらった本だ。

ある詩からの印象深い引用がある。

人が口にしたり書いたりするなかで、いちばん悲しい言葉、それは《かもれなかったのに》(35,6) 

 私は何度もこの言葉を吐いてきた。辞めざるをえなかった部活のステージを見に行ったとき。体調が整わず、大学に居残ることを決め、社会へと羽ばたく同級生を見送ったとき。「あそこに自分がいたかもしれなかったのに」と悔やまずにはいられなかった。

後悔の原因には色々あるだろう。私の場合は病気というのっぴきならない事情だったが、努力不足、衝動的に投げつけた言葉、すれ違い・・・。いずれにせよ、実現しなかった過去の可能性にこれほどまでに私たちが拘るのには理由がある。

理由は進化の観点から説明できます。反実仮想が重要なのは、それが世界に働きかける手がかりになるからです。「かもしれなかったのに」と悔やむから、わたしたちは新たな可能性を求め世界に介入することができるのです。(36) 

 新たな可能性を求めるということは、過去の後悔を未来に生かすということで、過去の反実仮想と後悔は、未来に向けた反実仮想の代価なのかもしれない。

わたしたちは未来に責任をもつからこそ過去のことに罪悪感をもち、希望を抱くからこそ過去を悔やみ、計画を立てるからこそ失望を味わうというわけです。実現しなかった過去を悔やむことは、豊かな未来を思い描けることとセットになっているのです。(36,7) 

 知ることとは基本的に「時既に遅し」であることが多い。「愛している」ことを知れなかったひとが破局の後に「愛していた」ことを知るということはよくありそうなことだ。では、もう失ってしまったひとのことを愛していたと知るとき、その知は私たちになにを可能にしてくれるのだろうか。失恋の先に、豊かな未来を思い描けるようになるとでもいうのだろうか。後悔と未来の間にはやはり大きな断絶がある。

「あのときああしていなかったら、こうはならなかった」と悔やむこと。それはひとつの因果関係の発見であって、次に似た状況に遭遇したとき、違う結果をもたらすことができる。その時に、あのとき後悔していたからこそ、今回はよい結果を得ることができた、と考えろということか。

失恋から豊かな未来を思い描くことまでの間には長い距離はあれ、道は繋がっているように思える。ひとつひとつの後悔から、そこにあった因果関係を導いて、別の選択肢を見つけて実行する。その繰り返しの果てに、今とは違う未来が開けているかも知れない。