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どくしょにっき

浜田明範(2018)「アクターネットワーク理論」(『21世紀の文化人類学』所収)

前々回スマホを持たないときに不安を感じるのだとしたら、スマホによって私達の身体は変容しはじめているという話を載せた。《モノ》は「人間による働きかけや意味づけを待っているだけの受動的な存在ではなく、人間の行為や認識を方向づける力を持ちうる(103)」のだ。私達はスマホとつながっている。また、スマホは充電器や中継局とつながっている。人間・非人間からなる多様な「アクター」の織りなすネットワークがここに形成されているのだ。現象を理解するにはこうしたネットワークへの理解が欠かせないというのがアクターネットワーク理論(ANT)の特徴的な主張だ。技術決定論でも社会構築主義でもない新しい立場といえる。

人間と非人間、《モノ》を同列のアクターとして扱う発想には面食らうかもしれない。それは、私達が人間/非人間、社会/自然という区分を疑うことなく受け容れているからであって、ANTはこうしたカテゴリーの分け方を再検討しようとしている。異なるカテゴリーは別々に存在しているのではなく、相互に絡み合ったネットワークを形成して、特定の現象を可能にしているのだ。

ネットワークは形状を変える。カテゴリーの独立性と自明性は揺らぐ。《モノ》は受動的に意味を与えられているのではない。「ANTでは、アクターのネットワークがそのような意味の体系を変容させる状況を説明できる(106)」のだ。これは大変魅力的な特徴だ。

ところで私は、バウンダリーオブジェクトという《モノ》の研究をしている(詳細はこちら)。これまでの私は、人間のコミュニケーションありきでこの話を考えていたことに気付かされた。オブジェクトは人間の意味付けを待っているだけの受動的な存在だと考えていた。違うのだ。オブジェクトは私達を作り変えるのだ。しかも、オブジェクトと私達の関係は並列的な同じ地平にあるネットワークになっている。

例えば、プレゼンで使用されるグラフはバウンダリーオブジェクトの一例だ。グラフが説明難しい動きをしているとき、参加者たちのあいだでディスカッションが起こり、これまでになかった関係性が生まれる、といった説明がなされている。このとき、私達とグラフは同列のアクターであると考えるとどう現象を説明できるだろうか。これまでの説明とは違う斬新な視点が得られるだろうか。

バウンダリーオブジェクトには、特定の1つの解釈を与えることが難しいという特徴がある。このあいまいさによって、個々人が自分の文脈に引きつけて解釈を行うから議論が生まれるわけだ。ここでオブジェクトの能動性を強調して、『あいまいさは関係を組み替えるパワーを持っている』と考えてみてはどうか。安定したネットワークは、オブジェクトの持つあいまいさというパワーによって動揺する。変容の契機が生まれる。

例えば、友達以上恋人未満の二人の間で突然に花束が贈られたとしよう。この花束というオブジェクトがなにを意味しているのかを一意に定めることは非常に難しい。この花束はあいまいさのパワーを持っている。贈られた方だけでなく、贈った方も動揺する。《私―あなた》という二者関係は、《私―花束―あなた》という三者関係に移ることで、もう以前とは同じではいられなくなる。動揺と変容。なにかが始まるかもしれない、終わるのかもしれない。

終わらせないためにはどうしたらいいのか?これがバウンダリーオブジェクトのもう一つの議論だ。関係の変容を促すオブジェクトは、しかしながら同時に、関係をゆるく繋ぎ止めなくてはならない。元の論文には「オブジェクトは頑健性を持っている」と書いてあるが、私にはその意味がよくわからなかった。きっと、バウンダリーオブジェクトはあいまいさのパワーだけでなく、頑健さのパワーも持っているということなのだろう。ネットワークを頑健なものにするパワー。

ネットワークの頑健さは冗長性によって保たれている。鉄道ネットワークは迂回路がたくさんあるという冗長性を持つから、一つの路線が止まってもだいたいの場合目的地にたどり着ける。迂回路。《私》から《あなた》に至る別の経路、迂回路。例えば、先のネットワークに《誕生日》というアクターがあったらどうだろうか。《私―花束―あなた》という経路は、《私―誕生日―あなた》としても理解可能だ。この迂回路があれば、『ああ、誕生日の花束なのね』と動揺を鎮めることもできるはずだ。花束によって確かに関係のネットワークは変容する。しかしこの迂回路があることで、このネットワークが散り散りになることは避けられる。

ではこの《誕生日》というアクターはなにものなのか。誕生日はどういうもので、どういうことがなされやすいのかということは非常にパターン化されている。みんなで祝い、ケーキの火を消し、プレゼントが贈られる。ここで、パターンと冗長性が同義であることに注目すれば、《誕生日》とはネットワークに高い冗長性を与えるアクターなのだ。優秀な迂回路というわけだ。

ここまで、ANTの発想を私の研究に繋げる試みをしてみた。思考の出発点としては悪くない。このたとえ話を使って、いろいろなひとと議論していきたい。

アート系トーク番組 art air(2017)「ブルーノ・ラトゥール 人類学を震源とした新たな動き 人類学の存在論的転回」

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この動画を見ながら科学人類学者であるブルーノ・ラトゥールのアクターネットワークセオリー(ANT)について学んだので、少しメモを残したい。

『法が作られているとき』では、フランスの行政裁判所でどのように法(フランス行政法)が解釈され作られているのかを人類学的に考察した。慣習法であるフランス行政法は、一見合理的に見えるが、実は人間関係や阿吽の呼吸といった非合理的なものから構成されていることを明らかにしている。真理体系は人の構成が変わると変わってくるアドホックなものである。例えば、「判例があったけどみつからなかった」ということが体系に影響を与える。法律は文章からなるが、同じことであっても書く人が異なれば文脈が違い、意味が変わってくる。しかもそれは、人だけでなく《モノ》からも影響を受けると考えるのがANTの特徴だ。

理解のためのキーワードは《存在論的転回》である。関係性に対して、いままでは関係自体に問題意識があったが、《モノ》そのものに焦点を当てようという動きだ。《モノ》=《存在》をどう分析していこうかという動きである。この動きは《多自然主義》と合わさって哲学の主流を形成しつつある。多自然主義多文化主義と対立した考えであり、単一の自然がある上に多数の文化があるというのではなく、自然の多様なアクター(モノや非人間)が私達と切り離せることなくあり、それらとのパースペクティブの転換が不安定に生じるという立場だ。

実在的なものを切り離して主観で考えることを体系化したカントに対して、人間以外の《モノ》に目を向けようとしているのが《存在論的展開》の特徴だ。天動説と地動説の対立に見るように、科学はカントとは反対の方向(「私達のほうが動いている」)に向かっている。しかし、科学も客観性があるのではなく、一つのパースペクティブにすぎないことには留意が必要だ。科学的事実は発見されるものではなく、作られるものなのだ。

この意味で、ラトゥールは《対照性》という概念を持ち出して「近代化などしていない」と言う。シャーマンと近代の科学や医療とは機能は変わらない。親族や呪術、妖術は現代社会でなにに対応するのかを考えるのだ。結局、近代的にみえるものは、その中身はいわゆる前近代の社会と変わらないと分析する。近年言われる《再魔術化》は起きていなく、もともと近代でもはじめから魔術は魔術のままだったのだ。

山崎吾郎(2019)「技術と環境 人はどうやって世界をつくり、みずからをつくりだすのか」(『文化人類学的の思考法』所収)

私達の《あたりまえ》を揺るがすような印象的だった一節から書き始めたい。

自然と不自然、本物と偽物のあいだには、ちょうど、眼鏡とサイボーグのあいだにあるのと同じ差異が感じとられている(30) 

 技術は人間や自然の本性を変化させると考えられている。遺伝子組換え食品は《自然の》種ではないし、能力を高める薬を飲んで受けた試験の結果は《本当の》能力ではない、そう考える人は多いだろう。しかし、眼鏡をかけている人は依然《自然な》人であると思う。眼鏡という技術でエクステンドされた人は《不自然な》サイボーグとはみなされない。「技術の問題には、世界へのかかわり方にまつわるこうした緊張感(30)」があるのだ。

技術の特性についてマルセル・モースは《相互的因果》という概念を提起している。

人は、ある動作や技法の延長線上に技術を作るだけでなく、作り出された技術によってみずからが影響を被るという、反対方向の関係性に同時にまきこまれているということだ。(32,3)

たとえば、先の尖った石器(尖頭器)は、大型の動物を仕留めるために用いられた旧石器時代の代表的な道具であるが、同時にそれは、狩猟という社会的行為を可能にし、狩猟社会が成立するための物理的な条件ともなった。(33) 

 この概念は、人は「技術との関係にまきこまれた具体的な生のあり方(33)」をしているという理解を促す。「技術によって人の生活が成り立っており、同時に、人の生活のなかからその必要に応じて技術が作り出されている。この相互的因果を考えることは、人と世界のかかわりを考えることにほかならない(34)」のだ。

この概念を理解するにはユクスキュルの《環世界》――身体の延長上に、身体と互いにかかわりあって現れる世界――の考え方が示唆に富む。マダニは眼も耳も味覚もない生物で、光角を使って低木を登り、嗅覚を使って酪酸を発する温血動物に飛び乗る。人の環世界とマダニの環世界とでは酪酸の果たす役割は大きく異なる。私達は同じ自然の中を生きているようでいて、しかしながら、マダニの環世界を生きることはできない。誰も《自然そのもの》や《世界そのもの》を知覚できていないのだ。

人にとっての世界とは、人が知覚することができ、また人に作用することができる世界のことである。私たちは、みずからの身体と技術をとおしてなんらかの関係性をつくりだせる世界を生きることしかできない。(36) 

 ここで、ラディカルな視点の転換が行われる。私達は《自然な》環境を技術によって切り開いてきたのではない。環境そのものを技術によってつくりだし、《技術的環世界》を生きてきたのだ。《自然そのもの》は不可知で、私達が知れるのは技術を通して関わることのできる範囲、私達にとっての環境だけなのだ。この複雑な絡み合いを生きるということは、社会に独自の領域があるとかそういう議論を無効にする。科学技術社会論を研究するラトゥールは以下のような批判を掲げ、自然と社会は互いに独立した領域ではないと主張する。

近代社会を対象とした人類学が見いだしたのは、社会とは、じっさいには人間と非人間をさまざまに関係づける実践の連鎖の中でしかとらえられないネットワーク状の構成体だということだ。 (39)

 病院という特殊な環世界について考えてみよう。顕微鏡という技術を通して医者が見ている患部と、痛みを感じている患者とでは、知覚されている世界が異なる。ワクチン接種のリスクが数値で示されるとき、患者の《統計的に構成された身体》だけが問題となっている。技術と社会は複雑に絡み合い、私達の権利という領域にまでそれは及んでいる。ウクライナ原発事故では、「社会保障を受ける権利は、みずからの身体がどのような状態にあるかを科学的に説明できることで初めて正当化される(40)」のだ。

最後に、私達の身近な世界にあるこの問題について引用して締めくくりたい。

スマホを手放すことであなたが不安を感じるのだとしたら、それは、スマホがあなたの日常を構成する環世界の一部となり、あなた自身の生を規定しはじめているということだ。つまり、あなたの身体は、スマホをつうじて変容しはじめていることになる。(42) 

 

千葉雅也・二村ヒトシ・柴田英里(2018)『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』

本書は哲学者の千葉雅也とAV監督の二村ヒトシ、現代彫刻家でフェミニストの柴田英里による性的欲望の問題を中心とした結構過激な鼎談だ。はやく読みたすぎて発売日の深夜にKindle版を購入して読んだ。なので、引用の括弧内はページではなくKindleの位置ナンバーだ。

性的欲望に何か特別なところがある(食欲などとは異なり、性について語ることには特別な恥ずかしさがあるでしょ(75)

性について語るときの特別な恥ずかしさはなにに由来しているのか?この性的欲望とは私達が生きるにあたってどう機能しているのか?

欲望とは、積極性です。積極性とは、言い換えれば「肯定」です。欲望とは、肯定することです。肯定的生、肯定的性。それはしかし、逆説的に思えるかもしれませんが、何らかの「否定性」としぶとく付き合い続けることを含意している(113)

 性について語ることになんらかの抑圧を感じるのはこの「否定性」故だろう。自分からは言い出せなくても、話を振られたらちょっと喜んでしまうという受動性がある。「〜してはいけない」という否定性、秘密の存在が心の中で蠢く積極性を支えている。性的な交わりには受動性というか、主体的な積極性が溶けていくモーメントがある。「セックスには中動態的なものがある。責任帰属が問えない状態のまま、あるエロティックな状況が起動して、その中で主客がよくわからなくなっていく(1019)」とあるように、主体の否定というネガティブな側面が性の本質なのだ。

この主客の溶け合いは性だけでなく、日常のコミュニケーションのいたるところに現れれている。しかしながら近年は主客を明確に分離しようという圧が社会で高まっていると述べられている。この帰結のひとつがTwitterでよくみられるような「正義の怒り」だ。

被害者感情による攻撃性を社会正義として肯定する女性には、その被害者として傷ついている自分に気持ち良くなっている部分もあります。[...] 敵を発見してキーッてなる、怒りにとらわれることはオーガズムです。(795)

 否定性や受動性というとネガティブなイメージがあるかもしれないが、人は主体であるよりは客体でありたいと願っている面があって「気持ちよくさせてもらいたい」と思っている。怒りをぶちまけるとすっきりするのは積極性ではなくて受動性なのだ。Twitterを探索して怒りのネタを探すのことには気持ちよくさせてもらいたいという欲望がきっとある。「自分たちがどれだけ攻撃的に出ても、それを乗り越えて受容されること、圧倒的に満たされることが、ネットで怒っているような人たちの欲望(1719)」と分析されている。

ところで、被害者意識には偶然性の問題が絡んでいる。

自分の傷には誰か原因となる加害者がいた、この件にも悪者がいるはずだ、この件もあの件も人災だって認知すると、自分への加害者の存在を思い出せて、また怒ることができる。(1032)

できれば、ほとんど人災だったことにしたい。偶然性の否認だよね。偶然性というのは、合理性のまったき否定ですから、理性的動物としての人間には耐えられないわけです。だから必死になって、どんな災難にもそれなりの理由があったと思いたい(1036)

これは鬱病にも言える。鬱状態において、なぜ自分はこんなに苦しんでいるのかということには根源的な理由はない。だから理由を探す。しかし、そこに理由はないのだと偶然性を受け入れることでしか鬱を乗り越えることはできない。「あまりに単純すぎるがゆえに、なにか物語がないと耐えられない(1744)」のだ。

精神病といえば、「なぜそれが病気なのか」ということは社会の趨勢によって決まるところがある。たとえば、「コミュ力の価値が上がることで、そこからこぼれるあり方、発達障害というカテゴリーが注目されるようになった。昔だったら、「ちょっと変わった人」ぐらいで済まされていた人を、病理化してカテゴリーを作って、どんどん取り込んでいっている(1915)」といった具合だ。

病だけでなく、なにかの被害を受けたときに生まれる傷はその人に固有のものだ。しかし、#MeTooなどの運動は「あなたの傷は私の傷でもある」と言って、その固有性を否定する。これを共感と言えば聞こえがいいかもしれない。しかし私達はあまりに共感を理想化しすぎている。共感とは固有の感情を交換可能なものに貶めてしまうという側面がある。

傷の価値、値段が下落したからこそ、傷を交換することがポピュラーになり、そのポピュラーな行為が、コミュニケーションとして優位なものになっていると考えています。(3004)

私がたとえ傷ついたとしても、それは私固有のもののはずなのに、それをSNS上で交換することで、特定の表象を、何か普遍的な女性という概念に対する犯罪にしたいんじゃないか。私は、それは女性性の一元化・本質主義化にすごく近い(3007)

 共感は多様な固有性を喪失させる。それは人間の固有性の毀損だ。違和感のある意見にも聞こえるが、共感による結びつきのポジティブな面だけを見ていると、道を誤りかねない。

私が他ならぬ私であるためには、性と生の積極性を支える否定性・偶然性を受け入れることが必要だ。交換不可能な私、私だけの傷。ネガティブなものが私が私である積極性を作り上げているのだ。この逆説を生きることをこの本は勧めているのだと私は受け取った。

Star & Griesemer (1989) “ Institutional Ecology, 'Translations' and Boundary Objects: Amateurs and Professionals in Berkeley's Museum of Vertebrate Zoology, 1907-39”

私の博論の中で最も重要な論文の感想を書きたい。異なる関心を持つ人々がどのようにしたら協働できるようになるのか、というテーマの論文だけれども、Abstractを読んでみると協働のうちでも特定のものに焦点が当たっていることがわかる。


Scientific work is heterogeneous, requiring many different actors and viewpoints. It also requires cooperation. The two create tension between divergent viewpoints and the need for generalizable findings. We present a model of how one group of actors managed this tension. (387)

この論文は科学の営みという協働についてのもので、研究には多様な視点が必要であるとともに、結果を一般化しなければならないという緊張関係をマネジメントする方法をみつけようというものなのだった。これは博論にとってはありがたい話だ。

新しい科学的知識の創造には新しい発見だけでなく、コミュニケーションが必須だ。なぜならば、新しく発見されたモノや方法の意味というのはまだ1つに収斂していなくて、研究者ごとに異なる意味を持ってしまっているから、協働するためには意味の調整作業としてのコミュニケーションが必要なのだ。“how can findings which incorporate radically different meanings become coherent?”(392)という問いが掲げられる。「根本的に異なる意味を取り入れた発見はどのようにしたら一貫性のあるものになるのか?」という問いだ。

このコミュニケーションを促進させるツールとして、手法の標準化とバウンダリーオブジェクトの開発という2つの方法が提案される。手法の標準化の方はわざわざ定義を確認するまでもないが、後者についてはそれが必要だろう。この論文で最も引用されている箇所をここでも引用する。

Boundary objects are objects which are both plastic enough to adapt to local needs and the constraints of the several parties employing them, yet robust enough to maintain a common identity across sites. They are weakly structured in common use, and become strongly structured in individual site use. These objects may be abstract or concrete. They have different meanings in different social worlds but their structure is common enough to more than one world to make them recognizable, a means of translation. The creation and management of boundary objects is a key process in developing and maintaining coherence across intersecting social worlds. (393)

バウンダリーオブジェクトとは、可塑的(plastic)かつ頑健(robust)なモノで、このマネジメントが一貫性の形成・維持には必要であるというのだ。可塑性というのは、オブジェクトを利用する人々の個々の必要や成約に適応できるということ。対して頑健さというのは、別々の人々に利用されたとしてもそこに共通するアイデンティティを保てるということだ。こうした特徴を備えるためには、共通して利用される部分についてはゆるく構造化されている一方で、個々の場面で利用される場合には強く構造化されるようになることが必要である。すなわち、異なる意味を持つが翻訳可能な程度には共通の構造をしているのだ。

 自然史博物館には、科学者とアマチュアパトロン、経営者、大学といった多様な主体が関わっており、彼らのダイバーシティと協調をどのように管理することができるのかを説明するためにバウンダリーオブジェクト理論が導入された。

この博物館に携わる主体は以下に挙げるようにそれぞれ異なる意図を持っていた。まず、科学者は、ダーウィンの自然選択理論の背後にある環境の影響を明らかにするために標本の収集を行いたいという意図があり、そのためには標本についての詳細な情報が必要であった。一方で、パトロンと管理者は、カリフォルニアの消滅しつつある自然を保存したいという意図を持っていた。アマチュアのコレクターはプロフェッショナルの科学的探求に対して役割を果たすことで、彼らの収集の努力を正当化したいという欲求があった。また、狩猟者の関心は、採集した動植物から金銭を得ることにあった。最後に、大学にとっては、地域のカルチャーセンターとして大学の目的に見合うものにしたいという意図があった。

これらの異なる関心を持った集団を協調させるための翻訳活動には2つのものがある。1つは、明確な標準化された手法を開発、教授、施行し、コレクターと狩猟者を訓練することである。ここで重要なのは、「どのように」収集するのかという点は標準化するが、「なぜ」収集するのかという点は個々人に委ねるという戦略である。もう1つは、集団間の自立性とコミュニケーションを最大化できるバウンダリーオブジェクト(e.g. 標本、フィールドノート、ミュージアム、地図など)を生成することで、個々人に委ねられた「なぜ」が発散してしまうのを防ぐことが目されている。

バウンダリーオブジェクトには、レポジトリと理念型、一致した境界、標準化されたフォームという4つの排他的でない類型が示されている。これらは異なった解釈を許すことで個々人の自律性を高めると同時に、共通のゴールと共通理解に向かわせるアンカーとなる役割を持っている。言い換えれば、発散と収束という両義性があるということだ。それぞれの類型について詳述する。

まず、レポジトリとは、標準化された仕方でインデックスされたオブジェクトの秩序だった集積物である。これは、分析単位の差異によって引き起こされる異質性の問題を解決するために構築される。図書館やミュージアムがその例であり、モジュラリティの強みがある。異なる個人は直接に差異について交渉することなしに、彼らの目的のために集積物を使ったり借りたりすることができる。

次に、理念型とは図表やアトラスのようなモノを詳細まで正確に記述しないもののことである。どの個々人からも等しく抽象的なために、誰にとっても平等にあいまいである。このあいまいさゆえに個々の目的のために適切に適応可能であるという性質から、象徴的なコミュニケーションと協働が可能になる。「種」というコンセプトはその一例で、「種」は具体的な標本を記述しないが、具体的または理論的なデータを取り入れることで両者のコミュニケーションを可能にする。

そして、一致した境界とは、同じ境界を有しながら、異なる内容を持つ共通したオブジェクトである。これは、データ収集の方法が異なるとき、または、作業が地理的に分散して行われるときに生じる。個々人の自律性を保ちながら、彼らに共通の参照点を共有させることができる。カリフォルニアそれ自体がこのバウンダリーオブジェクトの一例である。アマチュアとプロフェッショナルではカリフォルニアの地図の内容は異なるが、地理的な境界は共有している。

最後に、標準化されたフォームとは、すでに述べたような分散した個々人の間で共有される手法のことである。この論文の中で、標準化とバウンダリーオブジェクトは並置されていたが、この箇所ではバウンダリーオブジェクトの一種とみなされている。私見では、標準化については、発散と収束のうち後者の機能しかもたないので、バウンダリーオブジェクトとは言えないのではないかと考えている。

以上、抽象的な説明ではあるが、元の論文にできるだけ近い形で四類型の概要を示した。この発散と収束の両義性という機能は、以降の研究では十分に理解されているとは言い難く、前者、解釈の多数性という側面ばかりが強調されているきらいがある。解釈の多数性を許すだけでは協調は発散してしまい、共通のゴールへと向かうことはできないにもかかわらず、どのようにこの共通理解を形成するかという論点は見過ごされがちである。

土居健郎(1971)『「甘え」の構造』

「甘え」とは何か。まずはその定義から確認したい。

「甘え」は親しい二者関係を前提にするとのべた。一方が相手は自分に対し好意を持っていることがわかっていて、それにふさわしく振舞うことが「甘える」ことなのである。(3,4) 

 土居はこの「甘え」という概念を引っさげて、日本語という言語とその言語のつくりだす日本社会、ひいては私達の心理にいかに「甘え」が潜んでいるのかを明らかにしようとする。

「甘え」にとって肝心なのは相手の好意が分かっていることであって、相手に受け容れられないのではないかという恐怖がある場合にはうまく「甘え」ることができない。第一章の「甘えの語彙」の節では「気がね」という言葉について「『気がね』は通常相手に遠慮する気持をあらわすが、それは相手がこちらの甘えをすんなりと受け容れてくれるかどうかわからないという不安があるから」(48,9)と分析される。他にもいくつかの語彙を検討した末に、土居は「人間関係を現わす多くの日本語がすべて先に述べたように、甘えの心理を含んでいる」(53)と結論づけているが早急なのではないか。1971年に書かれた本なので、「自由と独立と己れに充ちた現代」(197)においては事情が異なるのかもしれない。一方、義理と人情の時代には、甘えによる依存は社会生活を円滑にすることができた。

人情を強調することは、甘えを肯定することであり、相手の甘えに対する感受性を奨励することである。これにひきかえ義理を強調することは、甘えによって結ばれた人間関係の維持を賞揚することである。[...]人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。(56) 

 現代では、依存性というとネガティブな意味で使われる。「甘え」も同様だ。土居も「自由と独立と己れに充ちた現代」においては事情が異なるという趣旨のことを書いている。

甘えの挫折ないし葛藤は種々の精神的障害を引き起こす。仮に、甘えが恋愛・友情もしくは師弟愛という形で満足されたとしても安心はできない。満足は一時のことで必ず幻滅に終るであろう。なぜなら、「自由と独立と己れに充ちた現代」において、甘えによる連帯感は所詮蜃気楼に過ぎないからである。かくしてこの二人とも、もしわれわれが幻滅に悩みたくないならば、自己についての真実と孤独の淋しみに堪える覚悟がなければならない(196,7) 

 なんという手のひら返しだろう。日本文化には随所に「甘え」が潜んでいて、それが社会を回していたという「甘え」万能論を提示したのにもかかわらず、このでの主張は「孤独に耐えろ」だというのだ。なんと救いのないことを言うのだ。私達が知りたいことは、「適切な甘え」とはなにかということなのだから。

「甘え」の連帯感が蜃気楼などとは思いたくない。その反面、依存し合うことによる危険性は嫌というほど知っている。どうすればいいのか。あまり知りたいことは知ることができなかった。

「序論 世界を考える道具をつくろう」(『文化人類学の思考法』、2019年)

序論では文化人類学がなにを目指している学問なのかが説明される。目を引いたのはこの箇所だ。

〔フィールドワークという身体的経験〕には、ある種のカルチャーショックをともなう身体経験を介して、既存のことば=概念がとらわれてきた世界認識を刷新したいという思いがある。(4頁) 

 概念によって私たちは作られている。「男」という概念は「男」というカテゴリーを作り出している。そうして作り出されたカテゴリーには規範が生まれる。「男らしさ」というものだ。それだけではない。「男」というカテゴリーは通常「女」というカテゴリーとの差異から捉えられる。両方のカテゴリーの間には頑然たる境界があるかのようにして、私たちの世界は作られ、私達自身もその世界認識によって自身を作り上げてきた。

街でみかける外国人について、「◯◯人は✕✕だ」と感じることがあるかもしれない。このとき同時に「✕✕ではない私たち」という自己イメージをつくりだし、維持しようとしている。(5頁) 

 この例にはぞっとした。出来の悪い学生を非難する時に、同時に私は「出来の悪くない私」という自己イメージをつくりだし、維持しようとしていたなんて!浅ましいな、と思う半面、差異なしにはなにごとも認識できないのだから、仕方ないじゃんとも思う。しかし、先に出した男女の例でいえば、男/女というスラッシュの入れ方、差異の作り方が本当に適切なのか?と問うていくことが文化人類学的な営為なのだろう。私は男性性というものが好きじゃないので、非難することが多いが、そうすることでポリコレ的に正しい私を演じているのかもしれない。情報とは差異をつくりだすものだと理解していたが、その差異がどう作り出した本人にも作用するのかは考えていなかった。難しい。

差異は、はじめからそこに「ある」ものではなく、自分たちとそうでない者たちの区別をつくりだす相互作用のなかで「つくられる」。文化人類学は、その差異を説明することの難しさ、危うさを認識したうえで、彼らと私たちとの間の関係について思考をめぐらせてきた。 (5頁)

 私にはまだ差異についての思考をめぐらせる道具立てが足りないことがわかった。この本を通じて、『文化人類学の思考法』を手に入れていきたい。