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どくしょにっき

ピエール・バイヤール著, 大浦康介訳(2016)「Ⅰ-1 ぜんぜん読んだことのない本」(『読んでいない本について堂々と語る方法』)

ムジールの小説『特性のない男』に登場する図書館の司書は全部の本について識っている。それは、一冊として中身を読まずに、目録だけを読むという方法によってだった。

ムジールの司書の賢明さは、「全体の見晴らし」というその考えから来ている。私は彼が図書館について述べていることを教養一般に敷衍して考えてみたい。書物の中身に首を突っ込む者には教養を得る見込みはない。読書の意味すら疑問である。というのも、存在する本の数を考慮するなら、全体の見晴らしをとるか、それとも個々の本をとるかを選ばなければならないが、後者の場合は、いつまで経っても読書は終わらず、全体の掌握にはとうてい至らないからである。それはエネルギーの浪費でしかない。

ムジールの司書の賢明さは、まずは全体という概念の重視にあるが、それは真の教養とは網羅性をめざすもので、断片的な知識の集積に還元されるものではないということを示唆していると考えられる。この全体の探求は、さらに別の側面も持っている。それは、個々の書物に新たなまなざしを投げかけ、 その個別性を超えて、個々の書物が他の書物と取り結ぶ関係に関心を払う方向へとわれわれを導くのである。(30,1頁)

 最近、頭が回っていないせいでこの「全体の見晴らし」が頭の中に描けない。頭の中に地図を描きながら街を歩くのではなく、目の前の景色だけを頼りに歩いている。いや、歩けてすらいない。全体の見晴らしが手に入らないとどちらに向かっていいのか分からないのだ。立ち止まっている。全体を見渡す能力というのは頭のいい人にだけ与えられたものなのだと知った。

論文を書く行為の大半は、30本以上の論文を頭の中でミックスして調理して新しい文章を組み上げることに捧げられる。まさに全体の見晴らしを手に入れられないと30本の論文を適切な場所に並べてつなげることができない。個々の論文が他の論文と取り結ぶ関係が分からないと、自分の論文がどこへ行くのか方向づけることができない。これは非常に難しいことなのだと知った。

歩けないのだ。無理に歩き回っても道に迷うばかりでどこへも行けない。とりあえず一歩を踏み出せとはいうが、それが間違った道への一歩だったなら無駄でしかない。全体の見晴らしが必要なのだ。地図を手に入れずに旅に出るのは愚かだ。道草や寄り道は全体の見晴らしを知った上で、あえて違うことをするときにだけ特別な価値がある。全体への反逆だ。それは全体の見晴らしを既に持っていることを前提とした行為だ。

歩くには地図を手に入れるしかない。その地図は自分で描くしかない。描くためには頭が回ってくれないとどうしようもない。頭が回るには、と試行錯誤している。締切が近づいてくる。あと15日。焦っても仕方がない。ただじっと待つのだ。

このブログの最近の記事も、引用だけしかできなくて、その引用は自分の知識の中にどう位置づけられるのかをぱっと把握して新たに方向付けられた自分について書くことができなかった。頭の回転なのだ。こんなに見晴らしの悪い世界を生きている人も沢山いるのだろう。そりゃあ読書も勉強も楽しくないはずだ。本に書かれていることそれ単体には面白さはない。面白さは、それが私の「これまで」と絡み合って私を導くことからやってくるのだから。

はやく、回復してほしい。

小林康夫(2015)「2-1 皮膚の哲学をもとめて」(『君自身の哲学へ』)

自他の区別が今大きく揺らいでいる。(74頁) 

 私とその他の事物との境界は皮膚だ、というのは当たり前のような気がするが、この本を読むまであまりそうには思ってこなかった。誰かの肩に手のひらを載せるとき、触れているのは確かに皮膚だ。皮膚なのだけれども、そんな物質的なものではない、もっと精神的なものを感じていたのだろう。もっと揺らぎやすいなにかのような。

この節の導入ではアトピー性皮膚炎が取り上げられる。皮膚という場所で起こる免疫系の不全の例としてだ。免疫系とは身体の内部で自己と他者とを認識して自己をバランスさせるシステムだが、アトピー性皮膚炎では、その認識に間違いが起きて、自分自身を過度に攻撃してしまう。小林は、アトピーのような免疫系の不全がもっと精神的な領域でも起きているのではないかと問題提起する。

自―他のあいだの境界の膜の透過性が非常に高くなっていて、そのことによってわれわれは、これまでのどの時代にも増して、きわめて鋭敏になっていると。/透過性というのは、傷をつくらずに、侵入してくるみたいなこと。(78頁)

 小林はここで情報社会を例に出して、様々な情報が傷をつくらずに膜を透過してきて人々の免疫システムを不全にしているのではないかという論を立てる。自我の主戦場は境界にこそあるというわけだ。

自我は皮膚にこそあり(84頁) 

 私とあなたという二人がいるときに、免疫システムが不全な私の皮膚は、傷を負わずともあなたを受け入れるのだろうか。それはとてもロマンチックにも聞こえるけれど、不特定多数に対して皮膚がなんでも受け入れてしまうのは恐ろしい話だ。満員電車で触れた人々を受け入れたくなどはない。膜を透過させたくはない。

そうすると、皮膚を厚くする戦略がやはりよいのか?透過しづらい膜をつくる。これは引きこもりに向かう方向だ。引きこもりになって誰とも接しなければ幸せかといえばそれは違う。皮膚を厚くしても薄くしてもそれ相応のつらさが待っている。

自―他のあいだの関係が両義的に、曖昧になっていく、しかし同時にそれゆえに、いっそう孤立していく存在の在り方。(93,4頁) 

 小林はここで前回取り上げたブリコラージュ的装置の話への接続を試みているが、私にはそのつながりはよく分からなかった。

私は他人に触れられるのは基本的に嫌だ。相当親しい仲でない限り身体がびくっと嫌な反応をしてしまう。そのくせ、仲が良くなるとべたべた触りたがる。皮膚に関する態度がまさに両義的なのだ。良くも悪くもあるという問題に対しては、これという解決策が取りづらい。ただ、皮膚に注目するという観点を与えてくれたという意味で、この節は記憶に残っている。

小林, 康夫. (2015). 「第1章 ブリコラージュ的自由のほうに」. (『君自身の哲学へ』)

この章の第2節「自分だけのスタイルに向かって」では安部公房砂の女』で、昆虫採集を趣味にしている青年が砂原の窪地に落ちてしまい出てこれなくなってしまう場面が取り上げられる。これは前節の「井戸的実存」の話の続きである。ここで青年はカラスを捕まえるために奇妙な装置をつくる。カラスの脚に「助けてくれ」というメッセージをくくりつけるためにだ。青年はこの装置を《希望》と呼んだ。この本の問題はこの《希望》とはどのように手に入れられるのか、ということだ。

まず、奇妙な装置を彼がつくるという場面で生じている自由が問題とされる。

われわれがありきたりの与えられたものの組み合わせを通じて、そのつど自分にとって必要な装置を自由に組み立てていくというところに、人間がもっている根源的な自由というのがある。(49頁) 

レヴィ=ストロースが言ったようなブリコラージュこそが自由ということだ。ここで小林はブリコラージュに実存という概念を絡めてくる。実存とは、僕の師匠は、自分にとって最も大事なことはなんぞやと問うことだと言っていた。

自分自身の実存のブリコルール(bricoleur)、つまり「器用仕事する人」になる、というか。そして、そこに、偶然なのか、それともそうでないのか、なにか二重に括弧に入っているような《希望》というものが萌す。(49,50頁) 

自分にとって最も大事なことのための装置を、ありきたりの与えられたものの組み合せから作るとき、偶然的に《希望》が萌すというのだ。それは一体どんな装置なのか。

この装置は [...] 設計図があるようなものでもなくて、ある欲望、いや、ある願いのために、本来的には別の目的のために使うべきものがずらされて、たまたまそこにあるものからひとつのユニークな組み合わせが生まれてくるというところにポイントがある。(54頁)

おおよそ、先の引用の言い換えだが、「たまたま」生じる「ずれ」というところにポイントがあるようだ。別の箇所ではこの装置のことがこう述べられている。

みずから世界を組み換えて、創造する。それが自由ということです。[...] カラスに仕掛ける罠という他愛もないブリコラージュを生み出すという話です。ありきたりの無意味な、無価値なガラクタの組み合わせだけど、それは創造なのです。そこでは、自由が行為されている。自由の装置がつくり上げられている。(57頁)

創造による自由はどのように《希望》につながるのか。それは、創造された装置によって、出来事が到来することなのだ。出来事とは、偶然的=運命的で、計算不可能な、目的論の構造に還元されないようなもののことだ。

置かれた環境のなかでブリコラージュ的にダンスをする。そこに、純粋な出来事への待機があり、そしてそれはそのまま、ほとんど出来事そのものだ、と言いたいのです。希望とはそのようなものだ、と。(62頁) 

ダンスとはなにか。また別の箇所から引用する。

 まるでダンスのように、機能や意味に還元されない、正否の判断基準を逃れた、しかしどこか自分の実存の姿を映し出しているような「遊び」を、しかし真剣に遊ぶべきだろう、と。(66頁)

 一貫して、「なんのために?」「正しいことなの?」といった問いをずらした別の平面に《希望》の可能性が照らし出されていることが分かる。そして、その平面に行くには、真剣な遊びのダンスをすることが必要で、そこでは自分にとって最も大事な装置をブリコラージュする。なかなか難しい話に聞こえるが、単純そうでもある。

きょうはこれ以上考えがまとまらない。またの機会に追記を試みたい。

松岡, 正剛. (2005). 「2 フラジリティの記憶」.(『フラジャイル』所収)

「弱さ」とはなにかという問題をフラジャイルという言葉の消息を求めることで見つけていこうというのがこの本の目的だ。多様な文学作品への言及、多様な言い換えの中をさまよい続けさせられて「結局フラジャイルとはなんなのだ?」という思いに駆られるが、その捉えきれない断片性こそがフラジャイルなのだろう。

今回取り上げる「2 フラジリティの記憶」という節には印象的な詩の引用があった(76,7頁)。北原白秋による『青いとんぼ』である。

青いとんぼの眼をみれば

緑の、銀の、エメロウド

青いとんぼの薄き翅、

燈心草の穂に光る。

 

青いとんぼの飛びゆくは

魔法使ひの手練かな。

青いとんぼを捕ふれば

女役者の肌ざはり。

 

青いとんぼの綺麗さは

手に触るすら恐ろしく、

青いとんぼの落ち着きは

眼にねたきまで憎々し。

 

青いとんぼをきりきりと

夏の雪駄で踏みつぶす。

 最終行に注目してほしい。この心の動きを松岡は「このたいせつにしたいのに雪駄で踏みつぶしたくなるような二律背反の感覚が『邪険な哀切』なのである」(77頁)と書いている。「邪険な哀切」とはなにか。それはフラジリティに関わるものである。松岡は「この蝶と手のあいだにわずかにあるもの、その覚束ない感覚がフラジリティなのである」(75頁)と書いていた。

しかし、蝶や小鳥がフラジャイルなのは、それが稚くいとけないものであるからで、それはこわれやすくおぼつかなくて、それゆえにたいせつにされるのではない。蝶や小鳥が手にくるみたくなるほど愛らしいからフラジャイルだというわけではない。(75,6頁)

 では、なんだというのか。なにが蝶や小鳥をフラジャイルにしているのか。

そこには「うすばかげらふのやうな危機感」がなくてはならない。 

しかも、ここが大事なところになるが、そこには愛着と半ばする「邪険な哀切」といったものが関与する。愛着と裏切は紙一重、慕情と邪険も紙一重である。(76頁) 

 蝶や小鳥がフラジャイルなのはきりきりと夏の雪駄で踏みつぶしたくなるような「邪険な哀切」を抱かせるからだというのが松岡の主張なのだ。これを初読した当時の私(2018年2月)は頁の隅に「よくわかる・・・」とメモを遺している。しかし、今の私にはいまひとつピンとこない。この感覚の移ろいやすさもフラジャイルなものなのだろう。

「邪険な哀切」を孕んだ「覚束ない感覚」がフラジリティである、らしい。ひとつ思い出したことがある。ロヒプノールという睡眠薬がある。あれを舌下に入れて溶けるのを待つとなんとも淡い味が溶けていくのだ。あれはまさに「覚束ない感覚」であった。このロヒプノールはなかなか強い睡眠薬なので、眠気を誘ってくれるのだが、そのまま眠れるときと眠れないイライラに苛まれるときとがあった。睡眠薬に頼らなければならない苦々しい思いもあった。ロヒプノールに抱く二律背反の思いとあの舌下の淡い味が合わさって、社会に適合できない自分を慰めることができていた。今でも懐かしい味として思い出す。あれがフラジリティだったのか。

繊細なガラス細工に見惚れていると、ふとすべて投げ壊したらどうなるのだろうかと妄想するときがある。きりきりと青いとんぼを踏みつぶしたくなるような気分である。優しくしてくれる友人に酷い言葉を投げつけたらどうなるだろうと妄想する。「愛着と裏切は紙一重、慕情と邪険も紙一重である」のだ。これらの思いを抱かせる細工や友人はあの舌下のロヒプノールと同じ味がするのだろう。感覚を振動させる。固定されていないがゆえにどこか覚束ない感覚を思わせる関係。

このフラジリティはそのまま美しさであると思う。関係が固定された瞬間、心の振動を止めた瞬間、これらの感覚は消え失せてしまうだろう。覚束ない感覚と邪険な哀切とが私に美しさを見せてくれる。それが多少居心地悪かろうとも、美しさのためには愉しんでいきたいな、とぼんやり思う。

 

フランソワ, ジュリアン. 著. 中島, 隆博. & 志野, 好伸. 訳. (2017). 『道徳を基礎づける』

「誰もが、他者の身に起こることに忍びざるものがある(人皆有所不忍)」。[...] 誰にとっても、他人が不幸に沈んでいる時に、無関心でいられず、反応を引き起こすものがあるということ、それが「仁」なのだ。(34頁)

 この「忍びざる反応」とはなんなのか。この反応を出発点に道徳を基礎づけようというのが本書の目論見だ。道徳は理性によって基礎づけられると言ったのはカントだけれども、日々私たちも「相手の立場になって想像してみなさい」と想像力によって道徳を基礎づけようとしている。しかし、この「忍びざる反応」は想像力より手前で働くものなのだ。それは「私」と「相手」の区別が生じる以前の場所(私と相手のあいだ)で起こる≪反応≫である。理性の判断でも想像力でもない、相手に触発された反応なのだ。

そして、この心は人と人を結びつける。しかも、弱さではない仕方で。

忍びざる反応は、このような不幸な意識や悲惨趣味には全く侵されていない。それは、いかなる根本的な不幸もほのめかさないし、苦痛礼賛者のいかなる自己満足の糧にもならない。

それは弱さではない。他人を脅かすものを目の前にして沸き起こる、この忍びざる反応は、すぐさまわたしたちの存在の共同性を呼び起こし、生そのものであるこの結びつきを――わたしたちの間で――再活性化するのである。(72,3頁)

このメッセージは強く印象に残った。苦しんでいる友だちを助けようとするとき、それは弱さで弱さを慰め合う、負のスパイラルを生んでしまうのではと危惧していたからだ。しかし、「忍びざる反応」とは起こってしまうもので、仁の心がある限り押さえようのないものなのだ。そして、その結果生じるのは弱さなどではなく「生そのものであるこの結びつき」なのだ。

たしかに、相手の苦しさが伝染してこっちまで苦しくなってしまうことはよくある。相手に弱さを開示してもらうために、あえて自分の弱さを見せることもよくする。しかし、相手と生を通わせた結びつきが生まれるのは、そういうときならではでないのか。要するに諸刃の剣なのだ。

年々、負のスパイラルに陥らずに生の結びつきの方へと手をのばすことには長けてきているように思う。「忍びざる反応」という反応で相手に近づくところまではよい。そこから想像力を働かせすぎてはいけない。想像力による過度な同一化は危険である。手を差し伸べたいという気持ちを具体的にどういう行動に移すのか、そこが問われているのだ。

適切な距離ということがよく言われる。まず、「忍びざる反応」は反応なのだから、起きてしまうものなのだからもう仕方がない。手を差し伸べざるをえない。問題はそこからだ。手を差し伸べても近づきすぎてはいけない。共感と想像力による同一化には注意しなくてはならない。忍びざる反応は自他の区別が生じる前の間で生じる。しかし、生じた後には自他の区別を作り上げなくてはならない。難儀な話だが、仁の心を育てたいと願う私にとっては、これからも大きな課題のひとつである。

東, 浩紀. (2019). 「悪と記念碑の問題」. (『ゆるく考える』.)

人間から固有名を剥奪し、単なる「素材」として「処理」する、抽象化と数値化の暴力である。人間は世界を抽象化し数値化する。それはあらゆる知の源泉である。けれどもその同じ力は、人間を限りなく残酷にもする。 (310頁)

 この暴力性に気がついているひとはどれだけいるのだろうか。東はこの力を「抽象化と数値化の暴力。その悪は素朴にはあきらかだ」(311頁)と書いているが、私たちは日々匿名の統計データの素材を支払うことで様々なWebサービスを利用しているように、自分を抽象化し数値化することになんの抵抗感もないのではないか。むしろ、「それでサービスがよりよくなるなら」と進んで自分の身を捧げていることすらあるだろう。

具体的であること。量に還元されえない質的な存在であること。日々の生活の喜びはどちらかといえばこの具体的な手触りのあるお金で買えないところにある。この喜びを剥奪する暴力といって私たちが思い浮かべられるものはせいぜい具体的な暴力なのではないか。抽象化と数値化の暴力というもの自体、とても抽象的で想像しづらい。どうやったら皆にこの暴力性を伝えることができるのだろうか。

どうにも筆が進まない。私自身、抽象化と数値化によって知を生み出すことを生業としていて、まさに人間の活動の様々な側面を数値化することで生計を立てているからだ。「私は暴力を働いている」とは思っている。しかし、それが具体的にどんな暴力なのかはしっかりと考えてこなかった。抽象的には暴力だと分かっている。しかし、それを上手く説明できないでいる。だから今日も抽象化され数値化されたデータをいじくりまわしている。

研究の世界では、量的研究と質的研究の対立というものがある。統計的手法を使ってデータからなにかを言おうとする人たちと、インタビューやフィールドワークからなにかを言おうとする人たちとの対立だ。私は前者の派閥に身を置いてきたが、いつも後者への憧れがあった。「具体的にみてみないと分からないよね」という思いがあるのだ。統計データの作り上げる「言えそうなこと」はどこか嘘くさくて現実味が感じられない。しかし、そんな嘘くさくて現実味が感じられないものこそが客観的なエビデンスとしてありがたがられる昨今の風潮がある。きっとそういう人たちは抽象化と数値化とに憧れているのだ。私とは真逆の性向である。抽象的で数値的であるほうがなんだか「知」っぽいのだろうか。私にはそうには思えない。いつも欺瞞を働いている罪の意識がある。

この罪の意識はなんなのか。抽象的で数値的な「知」によってなにか分かった気になってあれこれ人々の活動を断じていい気になってしまうことへの罪悪感か。統計データをこねくり回せば言いたいことのためにデータを捻じ曲げられてしまうことへの不信感か。私にとっては抽象的で数値的なものは不誠実なもので、具体的で非数値的なものの方が誠実なものに思われる。しかしそれは伝達が難しい。いや、伝達が難しいから大切なものなのかもしれない。

なぜ皆は平気な顔をしてマッチングアプリを使えるのか。私の性格や趣味嗜好が点数化された多次元空間で距離の近いひとがサジェストされてくる、という事実に怖気が走らないのか。なぜなのか。私がデータ化されることに喜びを感じるひとは大勢いる。それが私をどれだけ捨象しているのか、どれだけ切り刻んでいるのか。自分や配偶者の価値を年収で計るひとがいる。ひとの価値を単一の数値に還元することの暴力に気が付かないのか。

しかし「私の夫の年収は2000万円です」というような発言を好まないひとは多い。「夫を金でしかみていないのか」と思うひとは少なくないだろう。そう、これだ。これは数値化の暴力が伝わりやすそうな例だ。「私の夫は上場企業の役員です」も夫をあるカテゴリーの一部とみなす抽象化の暴力だ。夫の顔は見えてこない。夫の固有名は剥奪されている。そうか、私がこういうひとたちを嫌いな理由はそこに暴力が溢れているからなのか。

「抽象化と数値化の暴力」に対しては繊細でなくてはならない。肝に銘じて過ごすとともに、周りの人たちにもこの暴力の存在を伝えていきたい。

根本, 達.(2018). 「運動と当事者性――どのように反差別運動に参加するのか」.(『21世紀の文化人類学――世界の新しい捉え方』.)

このテーマに関連のある身の回りで関心を持っていることは、ジェンダーLGBT(Q)を巡る問題だ。「緩くすべてを包摂してあげるからね」というマジョリティの態度に「私の当事者性はそんな言葉とは違う!」と怒りの声をあげるマイノリティという構図をよく見かけるようになった。マジョリティになんの期待をしているのだか…。分からないなりに分かろうとしてくれていたら、なんか違うなという解釈は生まれるだろう。それに対する態度は怒りを向けることではなく、自分の解釈を理解してもらおうとする努力なのではないだろうか。

本章のテーマは「アイデンティティ・ポリティクス」だ。

「自分が誰であるか」を排他的に決定し、所属場所を与えるアイデンティティ・ポリティクスが存在感を増している。民族や宗教の間の違いを強調することで、狭義の当事者性を設定する [...] これは、流動化によって集団間の違いが見えづらくなるなかで、確実な差異を創出しようとする近代的な現象である (226,7頁)

 このアイデンティティ・ポリティクスでは、差別者が被差別者を同じコミュニティのメンバーから排除することが起きるわけだが、そこで『オリエンタリズム』を引いて指摘されることには身をつまされる。

排除する側が排除される側に与えた価値は、被差別者が持っている特徴などではなく、実際には差別者の内側に隠されている一部である。(229頁)

 これは、あらゆる敵対的な関係に当てはまる至言のように思える。嫌いな人の嫌いなところも実は私の内側に隠されている一部なのだろうし、当事者がマジョリティに抱く反感もきっとそういう側面はある。「あいつらは○○だからな」という暴力的なレッテル貼りは常にブーメランにしかならないということだ。

ここでは、マイノリティによるアイデンティティ・ポリティクスの戦略についても触れられている。フェミニズムの歴史とよく重なる記述だ。

権力を持つ側によるアイデンティティ・ポリティクスが現状の権力関係を維持・強化するものであるのに対し、被差別者が取り組むアイデンティティポリティクスは自分たちを排除する社会を変えようとする動きである。この被差別者によるアイデンティティ・ポリティクスの特徴の一つは、マジョリティから与えられた否定的なカテゴリーを自ら用い、その境界線自体は変更しないまま肯定的なものへ改変することで、自己尊厳の獲得を目指す点にある。ただし、アイデンティティへの肯定的な意味づけを生み出す上で、マイノリティは、その社会で自らを排除する支配的なイデオロギーを用いることはできない。そのためにマイノリティは、自分たちに有利に働く「歴史」を描き出す必要がある。(231,2頁) 

 では、マジョリティが「包摂してあげるからね」という態度で接してきたときにはどうすればいいのか。そこに一種の暴力を見出すのもひとつの手だろう。マジョリティが彼らの勝手な想像力で設定されたカテゴリーに押し込められるのは確かに居心地が悪い。ゲットーに入れば最低限の身の安全は保障されますよ、というようなことだ。

当事者が持っているのは「私達には私達のカテゴリーがあるのだ!」と主張して、それを社会の中に位置づけたいという欲望なのだろう。引用した戦略とは随分異なる方法だ。カテゴリーを生み出す能力がマジョリティだけでなくマイノリティにもあるのだろうか。あるとしたらどうやって?

ここで登場するのが「生活世界」という概念である。

日常生活のレベルでわれわれは、生活現場から独立した運動のイデオロギーを参照するのではなく、生活現場に慣習的に根づいてきた論理を基礎として物事を理解している。

[...] それぞれは日常生活において、もともと持っていた枠組みを利用して新たに登場した事物に意味を与え、より受け身のかたちで自分たちが理解できるものへと読み替えることになる。

同時にそれぞれは、新たな事物を既存のものと区別できる別の文化として取り込もうとするため、生活世界に維持されてきた慣習的な意味づけの枠組みも無意識的なかたちで変化してく(241,2頁) 

 日常生活で具体的に目の前に異質な他者が現れることこそがカテゴリーを変容させるのだという話だろう。「男」「女」という二項対立でお互いに攻撃し合う「運動のイデオロギー」からは男女が理解し合う日は訪れない。しかし、カテゴリーの境界にある曖昧な場所にいる「女みたいな男」といった具体的な他者に日常生活で出会うことは、男女の歩み寄りを進めることができるかもしれない。

マジョリティ vs マイノリティというように抽象的なカテゴリーをお互いが勝手に引き合っているうちは争いは終わらない。抽象的な相手には気軽に暴力を振るえてしまう。いかに生活世界に異質さを滑りこませるのか。この誤配を起きやすくする方法を考えていきたい。