ぱむすけライブラリー

どくしょにっき

フランソワ, ジュリアン. 著. 中島, 隆博. & 志野, 好伸. 訳. (2017). 『道徳を基礎づける』

「誰もが、他者の身に起こることに忍びざるものがある(人皆有所不忍)」。[...] 誰にとっても、他人が不幸に沈んでいる時に、無関心でいられず、反応を引き起こすものがあるということ、それが「仁」なのだ。(34頁)

 この「忍びざる反応」とはなんなのか。この反応を出発点に道徳を基礎づけようというのが本書の目論見だ。道徳は理性によって基礎づけられると言ったのはカントだけれども、日々私たちも「相手の立場になって想像してみなさい」と想像力によって道徳を基礎づけようとしている。しかし、この「忍びざる反応」は想像力より手前で働くものなのだ。それは「私」と「相手」の区別が生じる以前の場所(私と相手のあいだ)で起こる≪反応≫である。理性の判断でも想像力でもない、相手に触発された反応なのだ。

そして、この心は人と人を結びつける。しかも、弱さではない仕方で。

忍びざる反応は、このような不幸な意識や悲惨趣味には全く侵されていない。それは、いかなる根本的な不幸もほのめかさないし、苦痛礼賛者のいかなる自己満足の糧にもならない。

それは弱さではない。他人を脅かすものを目の前にして沸き起こる、この忍びざる反応は、すぐさまわたしたちの存在の共同性を呼び起こし、生そのものであるこの結びつきを――わたしたちの間で――再活性化するのである。(72,3頁)

このメッセージは強く印象に残った。苦しんでいる友だちを助けようとするとき、それは弱さで弱さを慰め合う、負のスパイラルを生んでしまうのではと危惧していたからだ。しかし、「忍びざる反応」とは起こってしまうもので、仁の心がある限り押さえようのないものなのだ。そして、その結果生じるのは弱さなどではなく「生そのものであるこの結びつき」なのだ。

たしかに、相手の苦しさが伝染してこっちまで苦しくなってしまうことはよくある。相手に弱さを開示してもらうために、あえて自分の弱さを見せることもよくする。しかし、相手と生を通わせた結びつきが生まれるのは、そういうときならではでないのか。要するに諸刃の剣なのだ。

年々、負のスパイラルに陥らずに生の結びつきの方へと手をのばすことには長けてきているように思う。「忍びざる反応」という反応で相手に近づくところまではよい。そこから想像力を働かせすぎてはいけない。想像力による過度な同一化は危険である。手を差し伸べたいという気持ちを具体的にどういう行動に移すのか、そこが問われているのだ。

適切な距離ということがよく言われる。まず、「忍びざる反応」は反応なのだから、起きてしまうものなのだからもう仕方がない。手を差し伸べざるをえない。問題はそこからだ。手を差し伸べても近づきすぎてはいけない。共感と想像力による同一化には注意しなくてはならない。忍びざる反応は自他の区別が生じる前の間で生じる。しかし、生じた後には自他の区別を作り上げなくてはならない。難儀な話だが、仁の心を育てたいと願う私にとっては、これからも大きな課題のひとつである。